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「人間の『わずらわしさ』と関わり合う」磯野真穂インタビュー#WORKandFES2021

「ウェルビーイング」という言葉を至るところで耳にするようになりました。誰もがよく生きる。そんな社会はすばらしい。それは疑う余地のないことのように思えます。しかし、この正しさに満ちた言葉に少しだけ違和感を覚えるのは、具体的に何を意味していて、誰のために使われているのかわからない「マジックワード」として捉えられているからではないでしょうか。天才物理学者のホーキング博士は、ALSという難病を患ったことで身体の自由が利かなくなりましたが、以前よりも人生を楽しめるようになったと生前に語っていたそうです。彼にとってのウェルビーイングは、一体どのようなものだったのでしょう。“ままならなさ”という一見するとウェルビーイングとほど遠い事象から見つめてみます。

※このインタビュー記事は、2021年12月11日に開催されたオンラインイベントWORK and FES 2021のノベルティ「WORK and FES 2021副読本」に掲載しているものです。そのほかにも、多彩な面々のインタビュー記事が掲載された副読本のプレゼントキャンペーンを3/4(金)〜3/31(木)まで実施しています。ご希望の方はこちらのフォームよりご応募ください。

人間の「わずらわしさ」と関わり合う

人類学の研究を通じて「他者と生きること」と向き合い続けている磯野真穂さん。「これはウェルビーイングだ、といえるものが過去にも存在していたのではないか」「問題をアウトソーシングして解決するのではなく、わずらわしさを感じながらも向き合うことが必要ではないか」とさまざまな角度から疑問を投げかけます。私たちが「ウェルビーイング」という言葉を受け止め直すとき、どこから考えはじめればいいのでしょうか。

磯野真穂(いその・まほ)
文化人類学者。1999年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。オレゴン州立大学応用人類学修士課程修了後、2010年、早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は文化人類学、医療人類学。著書に『他者と生きるリスク・病い・死をめぐる人類学』(集英社新書)などがある

──ウェルビーイングについて伺うためにも、まず磯野さんの働き方についてお話しいただければと思います。2020年、大学を退職して独立されましたね。

研究者の世界、特に人文系は個々人の間で経済的格差が大きいんですね。かといって大学に属せないと困窮してしまって生活ができない......という状況があって、ちょっとおかしいのではないか、と感じていたんです。私が大学の外で人類学者としてきちんと仕事ができれば、後に続く人たちの選択肢がひとつ増えるのではないか、という思いで独立しました。とはいえ確たるロールモデルがあるわけではなく、相当な不安もあったんですけど。いろいろとお声がけくださる方々のおかげで、予想以上に充実した日々を過ごしています。

──研究のご関心に変化はありますか。

「人類学の“外”に人類学を使ってもらう」という方針は一貫しています。そのうえで、研究対象は少し変化があるかもしれません。これまで摂食障害をはじめとして、医療人類学と呼ばれる分野を研究してきました。独立したことと直接は関係ないのですが、近年はそこからだんだん研究対象が広がってきています。端的に言うと、「共在」の在り方、ということを考えるようになっていますね。

──「共在」ですか?

たとえば、多様性といったテーマはよく語られるようになっていますよね。ただ、あまりにも道徳ありきの議論で、人間はもっとトゲトゲしているものだという側面を見ていない気がします。人間は差別をしない生き物なんだ、という語り方に、すごく違和感がある。私はむしろ、人間は「分類」をする存在なんだというところから、問題を考えてみたいんです。「私たち」から見た「あいつら」という「分類」を、人間は必ずしてしまう。むしろそこから「共在」の在り方を探ってみたいと思っています。

──「分類」から「共在」を考える、という姿勢は、とても人類学的である気がします。

人類学はフィールドワークを行うので、「他者と共にある」ということなしでは、調査も研究もできないんですよね。フィールドワークをベースにしているからこそ人類学は、「手触り」のあるところから議論をはじめられるのだとも思います。

──そうした磯野さんの目からウェルビーイングという概念はどう見えますか。

正直言いますと、今ホットな概念として飛びつくのではなく、もっとその「翻訳」の過程を味わうべきなのではないか、という気はします。ウェルビーイングという言葉が入ってくる前に、これは実はウェルビーイングだ、といえるものはなかったのでしょうか? たとえば江戸期の医者・儒学者である貝原益軒が著した『養生訓』を、こうした視点から考えてみることもできますし。

──確かに吟味が必要かもしれません。ウェルビーイングがここまで日本社会で注目される背景は、どうお考えでしょう。

集団より個人に光が当たる社会になってきたからだと思います。バブル期を象徴する「24時間戦えますか」というCMがありましたが、徹底した男女分業のもと、男性はとにかく人生をすべて会社に注ぐ、という時代が続いていた。自分を犠牲にしてでも、組織の利益に結びつけていくことが生き甲斐。女性は身を粉にして子どもを育て、夫の世話をしてと、いわゆるシャドウワークにすべてを費やしていく。その中心も家族であり、個人ではなかったわけです。

そこから平成期に「自分らしさ」を重視する社会へと転じ、個人にスポットライトが当たっていくなかで、その健康もまた大事だといわれるようになってきた──。こうした流れで、ウェルビーイングが注目されるようになったのだと思います。

──WHO(世界保健機関)によるウェルビーイングの定義では、心身だけでなく社会的にも満たされた状態を指しますが、あまり個人の観点が強調されると、ウェルビーイングの自己責任化が進んでしまいそうです。

そもそもウェルビーイングというものは、ある種の理想であって、おそらく個々人が容易に達成できるものではないと思うんです。かといって、何かしら集団で生活する人間が、個人というものを一切犠牲にしないということも考えにくいですよね。

──個人の犠牲がまったくない企業というのも、想像がつきにくいですね。

個人と集団の間で、ハッキリと答えのない領域を、いかにホールドできるかが鍵なのではないでしょうか。すぐに答えをアウトソーシングせず、企業なら企業の内部で、どれだけそのわからなさに踏みとどまることができるか。そうした面倒くさい作業のなかにウェルビーイングはあるはずです。

──答えのない領域にみんなで踏みとどまることから、ウェルビーイングが見えてくる。

簡単にアウトソーシングしないとは言いましたが、私自身はテックが大好きですし、すぐ生活がぐちゃぐちゃになってしまうたちなので、毎日の行動はかなりアプリのお世話になっています(笑)。

外部の力を借りるところは借りればいい。ただ企業において個人のウェルビーイングが損なわれるとき、たとえばその原因のひとつである人間関係の解決は、アウトソーシングしづらい領域でしょう?

モジュールとモジュールを組み合わせてシステムを構築するようには、人間関係は構築できない。そのわずらわしさには、内部で向き合うことからはじめるしかないんですよ。

個人と集団の間でハッキリと答えのない領域を、いかにホールドできるかが鍵

──具体的には、どういうところからはじめるといいでしょう。

締め切りも提示せず、ポンポン思いついたように仕事を投げてくる上司、というのは“あるある”ですよね。「ちょっとそれ、やめてほしいんですけど……」という(笑)。

あるいは24時間以内にメールの返事がこないと怒りだして、嫌味な感じで言ってくる人とか。こういう小さな戸惑い、「うっ」という出来事の積み重ねが、私たちを疲れさせ、ウェルビーイングを削いでいくと思うんです。

──誰もが身に覚えがありそうな話です。

ハラスメントの相談窓口へ訴えるとか、SNSで告発するといった手段があることは、もちろん重要です。ただ、そうした重大な事態以外にも、日常的な「うっ」がたくさんあるはずなんです。確かに、「やめてくれ」と簡単には言えません。しかし、それでも言わなくてはいけないし、そうやって声をあげたときに、「私はあなたの味方だ」と内部で守ってくれる人がいる集団でなくてはいけない。

ある種のすれ違いも含んだ面倒くさい対話を、組織のなかで行っていく必要があります。でないと、いくらウェルビーイングという言葉で組織をキラキラとパッケージ化する企業が増えたとしても、その内部にまったくウェルビーイングはない、という事態が起こり続けてしまうのではないでしょうか。

人間の綺麗でない部分をいかに残すか

──とはいえ、個人が発言しても聞いてくれない職場も存在しますよね。

頑張りどころと捨てどころの判断は重要かもしれません。人類学には、ある集団や民族の行動様式を観察する「エスノグラフィー」という手法があり、多くの調査が残されています。そこでとりあげる集団や民族は、現代社会のありようを相対化するようなところがあり、ポジティブに論じられることが多い。

とはいえ、生まれた土地に縛られたり、個人の役割が固定されてしまったりというケースを見ると、「大変そうだな……」と思うこともあります。現代社会に生きる私たちは、嫌だと思ったら潔くその状況を捨てて、次に動くことができる。これはひとつの利点です。

──対話して、ダメなら動く、と。

確かに大変ではあるんです。今はセルフブランディングやセルフプロデュースが謳われる一方で、マニュアルも大量に出回っていて、その間で個人が引き裂かれるような状態になりやすい。ただ、人類学者の木村大治さんが『見知らぬものと出会う』という素敵な本で書かれているように、相互行為に正解は見出せないんですよ。その正解のなさにどう踏みとどまるかが、ウェルビーイングの第一歩なんじゃないでしょうか。

──わずらわしさを嫌って正解を求める姿勢からは、ウェルビーイングは遠いですね。

テクノロジーの進化と共に、私たち人間はどんどんとわずらわしさから距離を取るようになっています。それは、身体についてもいえます。自分の身体なんて、風呂に入らなければすぐ臭くなってしまう、わずらわしさの代表みたいなもの(笑)。それも電車内の脱毛の広告を見ればわかるように、私たちはツルツルであろうとする。コロナ禍によって、他者の身体の危うさが強調され、人間のわずらわしさを厭うような志向に、さらに拍車がかかったようにも感じます。

でも本当は、生きていること自体がわずらわしいんですよ(笑)。人間のわずらわしさ──綺麗でない部分をいかに残すかというのは、ウェルビーイングにおいても大事な話だと思うんです。

文:宮田文久 イラスト:星野ちいこ

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